鳥類の姿をとどめる ー 博物学と科学の境界  (2005.6.1[Wed])


     理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター 形態進化研究グループ 倉谷滋

 

 この世のあらゆる物質の輪郭はいわゆるフラクタル次元に存在し、どこまで拡大してもその凹凸が消えることはないという。したがって動植物を図像で示すとき、どの程度の細密度で表現するかということは観察者の意図、目的とか、さらには観察、描画技術のレベルによって半ば恣意的に変化することになる。分類学的記述ならば個体全体を描写し、ときには肉眼解剖学的な記述をすることも必要となるだろうし、ルーペや顕微鏡を用いた組織・細胞学的記載もあり得る。電子顕微鏡は細胞のなかに深く分け入り、はたまた実験室では遺伝子の塩基配列まで「描写」する。すべては、この世を正確に書きとどめんとする博物学的、科学的オブセッションに始まる行為だ。

描画の解像度が、科学と博物学を分ける」といったらそれはあまりに浅薄だろうか。しかし、実際それもある一面正しいらしい。オーデュボーン著、「アメリカの鳥類」というこの図譜は、それを如実に示す例といえる。この著者は、精密な写実に徹するためしばしば鳥を撃ち殺して持ち帰り、人為的にポーズを付けることによってスケッチした。そのため、まるでさっき撃ち殺したばかりの野鳥を机の上にどさっと置いたような、どこか不自然な姿の鳥が多く描かれている。このオーデュボーンの人となりについては、先頃出版されたリン・メリル著「博物学のロマンス」に詳しい。ここではとりあえず、肉眼で見えるレベルでの細密さを実物大で紙の上にとどめようとしたオーデュボーンの著作が、紛れもなくヴィクトリア朝、イギリス博物学の黄金時代に属していたということだけ確認しておこう。実物大での印刷にこだわった彼は、当時英国以外ではどうしても出版に漕ぎ着けなかったのである。

印刷技術がこれほどの高みに達した21世紀の我々がそのページを繰って気が付くのは、風評に反し、意外にシンプルなそのタッチである。例えば、翼の風切り羽の一枚一枚は弁別できるが、いくつかの鳥についてはそれ以外の体の羽毛を描き分けていない。現在の技術をもってすれば、当然はるかに細密な描写が可能となるだろうし、細密さにおいてこれをしのぐ鳥類の図版も存在する。むしろこの画集を観ることで浮かび上がるのは、「これ以上細かいところには言及しない」といった、ある種の潔さなのである。いうなればフラクタル次元のなかに限界を設けているとでもいうべきか...。

ヴィクトリア朝の博物学もまた、実は極めて繊細な「限界」の裡にかろうじて存在し得ていた。レーウェンフックの顕微鏡も、リンネの分類学もその手に届きながら、あえて無視して牧歌的な詩心に磨きをかける自由もまた彼らのものであった。やがてその危うさは、博物学自らをネガティヴに囲い込まざるをえない衝動へとすり替わる。曰く、「ルーペや顕微鏡を用いるのは科学であり、博物学ではない」、「動物は生きたまま観察すべきであり、科学者のように簡単にそれを殺してはならない」などなど...。最終的に科学と博物学を強引に引きはがしたのはチャールズ・ダーウィンの「種の起源」だったが、その渦中にあって「アメリカの鳥類」は、紛れもなくオーデュボーンという人物にとっての「博物学」の限界付きの解像度を、しかも「実物大で」我々に語っているようなのである。

参照:『アメリカの鳥類』(原題:”AUDUBON'S Birds of America.”