蝶類図鑑を嗜む (2012.8.1[Wed.])

    理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター 形態進化研究グループ  倉谷滋



  当コラムに屡々登場する六甲昆虫館のO氏は、言わずもがな昆虫採集に関してはそれ相応の年季が入っているが、それをずっと支えてきたのが、保育社刊1954年初版1962年発行『原色日本蝶類図鑑・増補版』(江崎悌三校閲・横山光夫著)。ボロボロになり、表紙も背も分裂し、頁すらばらけてしまっているのに買い換えようともせず、氏は焦茶に変色した厚紙製の箱ごとその古書を使い続けている。残骸のようになっても毎日のように開いて眺め、用が済むと元通りゴムバンドでしばって大事そうに標本箱の横に戻すのである。

  実は私も1961年発行の同じ図鑑(図)を所有していて、加えて1976年発行の「全改訂新版」(白水隆監修、川副昭人・若林守男共著)も備えている。標準的には後者が役立つ。が、かといって新しいものだけを残し、古い方を処分するというわけには決して行かない。すなわち、版を異にするこれら同タイトルの図鑑が実は全く別の書籍だというのが、今回の話なのである。

  「日本の蝶」といっても、その定義は単純ではない。戦前から戦後、さらに沖縄返還などを経て国際行政区分としての「日本」の範囲が刻々変化してきたことに加え、よその国から台風に飛ばされてやってくる「迷蝶」というヤツが居る。そもそも昆虫というのは常に分布や出現時期を変化させる。おまけに、デマ情報が写真付きで出回るのだから始末が悪い。デマというのは、それがデマであると暴露されるまで、正しい情報と同格に扱われるので困るのだ。だから、昆虫図鑑というものは、どんなに新しい情報を詰め込もうと、10年も経たないうちに不正確になってしまう危険を常に孕む。それは、すべての図鑑につきまとう宿命かも知れない。それでも、図鑑が科学的精神によって作られる以上、新しい版が一般的により優れているのは事実だろう。

  で、問題の「54年版」である。私がこれを見つけたのは神保町のある古書店で、比較的安価であっただけではなく、その版が、今では日本にいないどころか「いたためしもない」ことが明らかな「おおあかぼしうすばしろちょう Parnassius bremeri aino」なる、ある意味「伝説の蝶」に関する記述の残滓を含むというので購入したのだ。しかし、O氏の指摘するところによると、この図鑑の変遷はいわゆる日本蝶学の歴史を単に反映するだけではないという。たとえば、54年版の中の「ジャコウアゲハByasa aicinous」には以下のような記述がある。

「じゃこうあげは -やまじょろう-」 その名のように雄は芳香を放ち、雌の翅色は灰褐色、後翅の半月紋は雌雄共に赤・橙の2種の系統があって、見るからに南国情緒豊かな蝶である。  長い尾状突起を振りながら、そよかぜにのって緩慢に、樹間や路傍の花上を舞う姿は「山女郎」の名のごとく、絵のような美しさである。近畿地方を中心として、北は秋田・岩手まで... 中略 ...蛹は「お菊虫」と呼ばれ、後手に縛された姿にも似て「口紅」に似た赤い斑点さえもひとしお可憐である

  なるほど悩ましくも美しい・・・。これが76年版になると、分布・生態・食草・雌雄の区別・変異の各項目が淡々と記され、その内容が充実する一方で、文学嗜好の記述は皆無となる。図鑑の方針・哲学が根本的に異なり、もはや「女郎」のもたらす語弊をのみ鑑みての変更とは思えない。ジャコウアゲハがどのような蝶なのか、それは観察者の主観によるところ大きく、科学的にいささか不正確であるとしても、私としては日本の伝統的文化の中でその蛹が、怪談・番町皿屋敷のお菊になぞらえて呼ばれてきたこと位はせめて書き残しておいて欲しいと思うのである。

  ようするに、『保育社原色日本蝶類図鑑・54年版』は、文学の味わい深い博物学書であり、74年版とは全く別物であると思った方がいい。あらためて見ると、そこかしこに、あのヘッセの書いたような、虫に対する愛に満ちた文章が見出される。私の好む「スミナガシ」の項目では、「本土席巻を目指すかのように見える熱帯系の蝶の中でも、本種は北海道には未知だが、九州から既に青森にまで達している」と、まるで戦時中の大本営発表を思わせるような冒頭に続き、「紺の匂うサツマガスリのような翅の模様はいかにも南国的である」と、和服の品評でもしている風情。極めつけとして、「クジャクチョウ Nymphalis io geisha」に付せられた以下のような解説はいかがか・・・。

南国の鳥の羽毛に見るひとみのような輪状の紋と、色彩の濃艶な美しさ、種名ioと言う娘の名に添えて「芸者」と亜種名が付いているのは、どこか異国情緒をそそる。

  明らかにこういった文章は、研究室の昆虫学者に対してではなく、白熱球の下で種を見極め、それを得たときのことを想い出しながら標本箱に仕上がった標本を一頭ずつ置いて行くアマチュア蝶類蒐集家に向けて書かれている。

  以前書いたように、博物学が文学と科学の間の危うい境界に位置するのであれば、この図鑑を著した初期の著者達は、それを知った上であえて昆虫を科学と文化の両文脈で捉え、おのが文学的感性の限りを尽くして記述したと覚しい。思えば、O氏が、あの学者気取りのマニア達を必ずしも対象とせず、北野を歩く様々な観光客をもっぱら相手にしているのも同じ哲学の故か・・・。部屋に飾る目的で昆虫を箱に収め、売るからには、その昆虫の学術的出自よりも、それが人の生活空間の中でどのように輝くかと言うことの方が大事なのだ。「さて、この虫にはどんな服が似合うだろうか」と・・・。あらためてO氏が何故図鑑を買い換えないのか、ようやく合点がいった次第である。