原初の恐怖 (2013.6.3 [Mon])

    理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター 形態進化研究グループ  倉谷滋



日本産通草木葉蛾(筆者の標本箱より)

大人たちは言葉を知っているので、言葉によって知ろうとして、子供のように実物を見ない
山本夏彦著「編集兼発行人」(中公文庫)より

科学は多くの場合、子供らしいことがらから生まれるのだ
H.ファーブル

  その界隈では渋い男としてもっぱら定評ある昆虫館のO氏が先日私に白状したところによると、彼は小学生の頃、河鹿蛙(かじかかえる)Buergeria buergeriを採りに山中を歩いていた折、木の葉の上にじっと留まっている水蝋蛾(いぼたが)Brahmaea japonicaの翅の目玉模様に睨みつけられ、怖じ気づいてそこから引き返したという。この蛾は春にのみ現れる、私にとっては有り難い昆虫で、そんな季節に河鹿蛙を求め一人渓谷を行くとはO少年なかなか風流、確か岡本かの子の小説にもこの蛙が出てきたと想い出す。以来、彼にとり水蝋蛾は仇敵の如き存在となり、それを愛でて止まない私のような酔狂な客に出会うまで、ついぞ再会せずじまいであったという。

  実を言うと私も、昔は雀蛾が大の苦手だった。子供の頃、林のなかで木の幹にじっと留まっていた背筋雀(せすじすずめ)Theretra oldenlandiaeを見た途端金縛りに遭い、そこから奥に進めなかったことがある。毒気に当てられたようでどうも気が乗らず、採集を諦めてしまったのだ。そういえば、初夏に出没する樗蚕(しんじゅさん)Samia cynthiaも怖かった。この蛾は60年代までの郊外ではごく普通で、私の住んでいた豊中も例外ではなく、夏の夕暮れ、家の塀にこの蛾が留まり目一杯翅を広げていたり、夕食時に明かりに惹かれて網戸にぶつかってきたりした。焦げ茶色の地に顔のような白い輪郭が描かれたその巨大な蛾は何かこう、童話のなかの魔女のように妖気を発し、黄昏ともなれば一層黒みを帯び、裾の長いヴェルヴェットのドレスを艶っぽく纏っているようにも思えた。うっかりすると取り憑かれそうな・・・。今なら単に「不気味」と表現するのだろう。そんな怖ろしい蛾をなぜ、いまになって集めるようになったのか・・・。

  蛾におびえる感覚を言語化しようとしても難しい。あの頃私の認識はまだ言葉による分節化を経ておらず、そのため当時の感覚をいま表現できないのだ。言葉を持つが故の不自由さといえばよいか、我々は言語的概念によって道をつけられた思考以外の経路を持たない。いわば「言葉=思考」なのである。「怖い」と言った瞬間、それはただ怖いだけのものとなり、その観念から逃れられなくなる。子供の感性はかくして我々のものより自由で繊細で、かつ個性的だが、その代わりこの「コードなき感性」は我々の理解可能な記号と成る能力もまた持たない。鱗翅類の翅の紋様はもっぱら、幼児同様言葉持たぬ鳥の視覚認識を通じて進化した。言語以前の理屈でもって捕食者をおびえさせ、生き延びることができた紋様だけが生き残り、洗練されてきた。ならば、その紋様も明確な概念以前の適応的意義をまとうに違いなく、明確な言語表記を旨とする科学論文でその理由を記述できるかどうか甚だ心許ない。昆虫を理解しようとする者にとって、これ以上のジレンマはない。

  鳥に向けられて進化した目玉模様の多くは極めて明瞭で、ベイツ型、ミュラー型擬態に見る模様の模倣も、その完成度は分類学者を悩ませるほどであり、枯れ葉や樹皮の擬態に至っては、「よくぞここまで」とうならされるものが多い。このようにわかりやすい例は、その進化プロセスも想像しやすい。少しでも目玉や枯れ葉に似た個体が生き延び、その繰り返しによって淘汰は明確で見事な紋様を作り出してきた。が、一方で、一体何をやりたいのか分からないパターンも存在する。

  例えば、通草木葉蛾(あけびこのは)Eudocima tyrannusの終令幼虫の紋様がそういったもののひとつで、成虫が明瞭に枯れ葉を真似るのに対し、この芋虫の背中には縦に2つの目玉が並び、脅かされると体を曲げ、なんだか巫山戯(ふざけ)た「顔」らしきものを作り出す。それがまた諧謔味溢れる顔で、何をモデルとしているのか一向に不明。モデルなんてものは最初からないのかもしれない。言い換えるなら、我々の言語の範疇で理解可能なかたちになっていないし、鳥を撃退する成功の尺度も分からない。しかし、息子は威嚇ポーズのこの幼虫のパターンに明瞭に反応し、「イヤだ」とはっきりいう。何だか知らないが、確かに効いているらしい。

東南亜細亜産通草木葉蛾各種(筆者の標本箱より)
  かくして「不気味」は不可解で、「臭い」とか「痛い」という、明確な不快感とは一線を画す。その中身は微妙で、口に出して言いながらもなぜ気味悪いのか分からない。例えば、大きな蛾の気味悪さを「生暖かくて、腹部に毛がふさふさと生えていて、ぼてっとしていて、柔らかくて・・・」などと分析してみせる人がいる。が、それはその本人がしばしば好む猫の属性に他ならず、実のところ言っていることが全く矛盾していたりする。かくいう私も、どうすれば「気味悪い」ものを作り出せるかわからない。

  気味の悪い紋様を作り出す淘汰とは一体何か? 形態形成を左右するいくつかのパラメータのわずかな揺らぎや変異を足がかりに、形態パターンのありとあらゆる可能性の中から、鳥に気味の悪い印象を与える特異点にまちがいなく行き着いてなおかつ遺伝的に固定するような進化は、明確な最適値を目指したわかりやすい進化プロセスと果たして同じものか。あるいはただ単に偶然のなせる技か。それがどのようなものであれ、現に樗蚕や通草木葉蛾が延命しているからには、彼らの紋様は確かに忌避されている。

  蛾を蒐集する今の私は、昆虫の本来の適応度とは裏腹、その微妙な色合いや模様の繊細さを自分の好みの尺度で勝手に愛でるようになってしまっている。言わばそれは、本来は対昆虫用忌避物質であった植物体のアルカロイド系化合物を薬味として堪能するような、臍曲がりな人間なればこそ体得できた、「嗜好の技」とでも言うべきもので、つまるところ全く以て身勝手な理屈でしかない。しかし同時に、鳥にも通ずる原初の知覚、つまり何だか訳の分からない物に怖れ、結果として生態学的文脈において昆虫の進化に図らずも荷担していた頃のあの生々しい経験や、いまでもときおり網を手に暗がりを探す私が覚えることのある「不気味な」感覚を、できるならずっと忘れずにいたいとも思う。「林の中で虫に怯える」とはつまり、そういうことなのである。