揺り籠の中のKindle (2014.4.1 [Tue])

    理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター 形態進化研究グループ  倉谷滋



 

  最近Kindleで読書することが多い。購入したのは衝動ではない。むしろ必要性を考えると遅すぎるぐらいであった。出張が増え、文庫本や単行本を何冊も持って行くのがおっくうになったのだ。

  鞄に詰めた本を全て読むとは限らない。読まないなら、重いだけの無駄な荷物を持ち歩くことになる。少なめに持って行けばあっという間に読み切り、出張中に活字飢餓に陥ってしまう。そうなったらそうなったで、パソコン上で手慰みに雑文書いたり論文の推敲でもしていれば良いのだが、それで欲求が解消されるわけではない。さらに、Kindleストアでは例の青空文庫からタダで読める探偵小説が多数揃えてあり、夢野久作(Kyuusaku Yumeno)、小酒井不木(Fuboku Kosakai)、海野十三(Juuza Unno)、小栗虫太郎(Mushitaro Oguri)など、いかにもその方面に偏った作家の小説が鞄で手軽に持ち運べるとなると、もうこれは放ってはおけない。

  注文したら翌日には届いた。取りあえずネットにつないで、誰ぞの書いた江戸川乱歩論など無料ダウンロードして読んでみる。面白い。続けて寺田寅彦のエッセイを2、3読んでみる。素晴らしい。理研職員なら寺田寅彦は外せない。夢野の「ドグラ・マグラ」などはこれまで都合4回読んだから、近々5回目を読む可能性も極めて濃厚、早速ダウンロードしておいた。

  反射光でもって液晶を見せる仕組みだから眼も疲れないし、ページを指で押さえる必要も無い。これはハマりそうだ。これ以上書くとAmazonの回し者のようになるのでやめるが、この機会に電子書籍初体験談をちゃんとここに書き記しておくのも有意義だろう。文化とか文明とかというのは一種の生態系みたいなもので、そこには様式の統一や調和が生じ、人はモノそれ自体だけではなく、「○○食うときには、××のワインでなくちゃ」のような関係性や舞台設定に意味を持たせたがる。どうでも良いと言えばどうでも良いのかも知れない。が、どんな文化活動にもそれに馴染んだお膳立ては必要で、それが文化の文化たるところ。そこへ数年前忽然と登場したのがこのKindle。

  で、購入して早速である。私がこのメディアと「読書」という古典的行為の齟齬に出くわしたのは・・・。それはただの4コマ漫画。まぁ、こんなくだらない話だ - 主人公のクマが電車に乗っていると、目の前で乗客がだらしなく座席に寝っ転がり、吊り輪に雑誌を引っ掛けて読んでいる。と、いきなりその乗客、クマに向かって、「すいません、ページめくってくれませんか?」(中川いさみ作「クマのプー太郎」より)。故三平師匠よろしく、これのどこが面白いかと説明するなら、ただ、「ここまでグータラなやつがいたら、もう笑うしかない」というわけ。で、ここからが問題。書物を手で持ち、指でページをめくり、さらにそれを押さえておかねばならないという、紙媒体読書にまつわる物理的制約から解放されているKindleユーザーは、すでにしてこの乗客に輪をかけてグータラなのである。かつてこの漫画を紙媒体で読んだ人間が笑った場面で、いまのKindle読者も笑うだろう。が、うるさいことを言うなら、ページを押さえる必要のない後者は、紙媒体読者と漫画との間にかつて成立していた共犯関係からすでに一歩乖離してしまっているのだ。今から数十年後のKindleユーザーは笑うことすらしないかも知れない。より顕著な例として、古書を扱った人気漫画(三上延作「ビブリア古書堂の事件手帖」)を読んだときのこと。その中の主要人物による、「古書が大好きなんです。人の手から手へ渡った本そのものに物語があると思うんです」という台詞を、手垢も付かず、劣化もせず、ましてや重量もないデジタル情報で読まされた私は、なんとなく「裏切り者」呼ばわりされた気がした。自分自身、古書に対する思い入れが強く、これまで激しく蒐集してきたからなおさらのこと・・・。

  電子書籍による読書もメディア体験のひとつには違いなく、それゆえ時代とともに変化する文化様式に依存した鑑賞法を生み出してゆく運命にある。京極夏彦も確か「ユリイカ」で書いていたが、紙媒体による読書体験とは別物だと思った方が健康的で良いのである。ついでに言うなら、小説にはその内容に相応しいメディア環境がある。あるいは、小説の雰囲気は、小説自体と読書環境の協調により醸成されるとも思う。私は好きな作家の全集をいくつか揃えているが、どうにも香山とか乱歩をそんなハードカバーの大型本で仰々しく読もうとは思わない。とはいえ、それ以外では読めない作品も多く、手放すわけにも行かないのだが、本音のところ、彼らの作品は文庫か、できれば新書版で読みたい。紙の色や質だって拘りたいし、行間、字間、活字のサイズ、種類や字体、旧仮名遣いか現代仮名遣いか、そんなことにも口を挟みたい(適度に旧仮名遣いと旧字体が保存され、かつ、読みやすい活字で組まれた谷崎作品の中公文庫版が逸品だと私は思う)。さらに言うなら、出版に当たって底本とされたのがどのバージョンなのか、も大きな問題。作家さえいれば良いというものではない。出版とは、不可避的に「編集」という労働を要求する文化事業なのだ(だから、版権の切れた文庫本をただコピーしただけの「ザ・○○」みたいな恥知らずなエセ出版を私は激しく憎むのである)。

  同じ理屈で言えば、電子書籍には電子書籍に相応しい作品様式があるのであろう。上のような出版過程において障壁となる要因、様々な印刷様式のチョイスに関し、デジタル化は今後読者別のカスタマイズレベルを大いに拡大するであろうし、その可能性を様々に開拓してゆくであろう。とりわけ近代文学の出版様式の多様化が今から楽しみだ。一方で、現代の作家はそれが読まれるメディアを想像しながら今後創作することになるのだろう。そして、新しい表現手法がまだ発見されず、まだ定着していないだけのことなのだと思う。一方で、真の愛書家なれば、生まれたばかりで、まだメディアの生態系に完璧になじんでいない赤ん坊のようなKindleを手にし、直ちに蔵書処分が出来るわけもない。それもまた事実なのである。